最近「AIスロップ(AI slop)」という言葉をよく目にします。AIであまりに簡単にコンテンツを量産できるようになった結果、役に立たない低品質なコンテンツが世の中にあふれている、という意味です。この言葉は一過性の流行語でもなさそうです。メリアム・ウェブスター辞典は、生成AIの普及とともにこの言葉が広まったことを理由に、「slop」を2025年の「今年の言葉」に選びました。1
まず白状しておくと、私自身もAIを使ってコンテンツを作っている人間です。ですから、この記事が自己弁護のように読まれかねないことは承知しています。それでも一度、考えを整理してみたいと思いました。
私はこの批判にある程度共感しています。同時に「これは本当に、以前にはなかった新しい問題なのだろうか」という疑問も抱いています。この記事は、その二つの気持ちの間で考えを整理してみた記録です。
コンテンツはもともと、大半が役に立たなかった
AI以前に少し戻ってみましょう。私は、世に出たコンテンツの大半は、もともと大した意味を残せていなかったと思っています。SF作家のシオドア・スタージョンが1950年代に残した「あらゆるものの90%はクズである」という言葉が、今では「スタージョンの法則」と呼ばれているのを見ると、私だけの考えではなさそうです。
低品質なコンテンツがあふれているという心配も、かなり昔からありました。印刷術が広まった16世紀には、学者のコンラート・ゲスナーが「本が多すぎて混乱する」と嘆きましたし、19世紀のイギリスでは安価な連載小説「ペニー・ドレッドフル」が青少年を堕落させると批判されました。近いところでは、ブログの飽和、量産型YouTubeチャンネル、検索露出だけを狙ったつぎはぎ記事がありました。
作った人を責めたいわけではありません。コンテンツがうまくいくには、多くの人が共感し、参加したくなり、実際に役に立ったと感じる必要があります。ところが作り手は自分の話したいことに夢中になりがちで、その条件を満たすコンテンツの割合は、時代に関係なく常に低かったのだと思います。
予想される反論
昔は作るのにコストがかかったので、量が自然に制限されていた。今はコストがほぼゼロなので、割合ではなく絶対量が爆発的に増えた。
もっともな指摘だと思います。ただ、量が増えること自体はメディアが変わるたびに繰り返されてきたことで、そのたびに何が起きたかを見ると、少し違う見方ができる余地があります。この話は少し後で続けます。
AIは「作れなかった人」に機会を開いた
では、AIは何を変えたのでしょうか。私が見るに最も大きな変化は、もともとコンテンツを作るのが難しかった人や、時間がかかっていた人でも、簡単かつ速く作れるようになったことです。
インスタ漫画(韓国で「インスタトゥーン」と呼ばれる、Instagramに投稿する短い漫画)を例に挙げてみます。日常の面白い瞬間を切り取るセンスは優れているのに、絵が描けないために始めることすらできなかった人は、きっと大勢いたはずです。YouTubeも同じです。今ではそうした人たちも、自分のアイデアを世に出して試してみられるようになりました。
スマートフォンのカメラとYouTubeが、機材と放送局という参入障壁を下げたときにも似たことがありました。低品質な動画が増えた分だけ、従来の放送では機会を得られなかったはずのクリエイターも一緒に登場しました。実験の数が増えれば、良いアイデアが発見される可能性も一緒に大きくなると思います。
予想される反論
実験が増えても、良いものが埋もれてしまっては意味がない。使えるものを選び出すコストは、結局見る人が背負うことになる。
私もこれがAIスロップ議論の核心だと見ています。そこで次の話は、この「見る人が背負うコスト」についてです。
見る人が背負うコストは、コンテンツ産業が大きくなるたびに繰り返されてきた流れ
AIスロップが問題だとされる最大の理由は、その被害がコンテンツを消費する人に転嫁される点でしょう。見るものが増えるほど、良いものを探す手間は見る人の負担になりますから。私はこの現象が実在すると思っています。ただし、これはAIのせいで初めて起きたことというより、コンテンツ産業が大きくなるたびに繰り返されてきたマクロな流れの一部だと見ています。
振り返ると、供給が大きく増えるたびに、まず選ぶ負担が大きくなり、その後を追うようにふるい分ける仕組みが登場してきました。
- 本があふれると、書評やベストセラーリスト、図書館の分類体系が定着しました。
- Webページが爆発的に増えると、ポータルのディレクトリを経て検索エンジンが登場しました。
- 動画があふれると、チャンネル登録とレコメンドアルゴリズムがその役割を引き継ぎました。
今も同じことが進行中だと思います。プラットフォームのアルゴリズムは、人々が実際に長く見て、保存し、共有するコンテンツがより目立つように変わり続けています。反応のないコンテンツは、どれだけ大量に投稿されても、ほとんどの人のフィードには届きにくいのです。
予想される反論
アルゴリズムは「良いもの」ではなく「反応が大きいもの」を育てる。刺激的で釣りのようなコンテンツのほうが、むしろ広まりやすい場合がある。
その通りです。アルゴリズムが選ぶ基準がそのまま品質というわけではなく、このギャップはAI以前からあった課題です。それでも、反応すら得られない大量生産物は次第にふるい落とされていくという方向性そのものは維持されていると見ています。完璧なフィルターではありませんが、フィルターは進化し続けています。
「AIで作った」という目新しさが、問題をより大きく見せている
では、なぜ今この問題がとりわけ大きく感じられるのでしょうか。私は、AIでコンテンツを作るということが、まだ私たちにとって馴染みのある概念ではないからだと思っています。
今の私たちはコンテンツを見ると、まず「これ、AIで作ったものだな」と気づきます。内容を判断する前に、その判別が最初のレイヤーとして割り込んでくるわけです。そしてその下には「AIで作ったのなら低品質だろう」という前提が敷かれていることが少なくありません。実際、同じ絵でもAIが作ったと紹介すると、人が作ったと紹介したときより低く評価されるという研究結果もあります。2
微細粉塵(ミセモンジ、韓国でPM10やPM2.5などの大気汚染物質を指す言葉)とも似た面があると思います。毎日数値を確認しながら、空気がどんどん悪くなっていると感じる人は多いのですが、ソウルの微細粉塵(PM10)濃度は1995年に観測を始めて以来、上下を繰り返しながらも概ね減少傾向を示してきました。2010年の首都圏の年平均は47㎍/㎥で、2003年より32%低く、測定開始以来最も低い値でした。3 名前が付き、測定が始まると、体感が大きくなることがあるという話です。
時間が経てば、AIでコンテンツを作ることはプラスチックの食器を使うのと同じくらい自然なことになると思います。今の私たちは料理を受け取ったとき、器がプラスチックかどうかを気にするより、料理がおいしいかどうかを見ます。AIもそのように、「何で作ったか」より「何を盛り込んだか」を見られる道具になっていくのではないでしょうか。
予想される反論
微細粉塵は実際に減ったが、AIコンテンツは実際に増えている。それにプラスチックも慣れただけで、マイクロプラスチックという問題を残した。
どちらの指摘にも一理あります。ですから微細粉塵のたとえは「実際には良くなった」という証拠としてではなく、名前と測定が体感を大きくするという点までを言いたいものです。プラスチックのたとえも、慣れればすべての問題が消えるという意味ではありません。慣れた後になって初めて、本当の問題が何なのかがより正確に見えてくる、というほうに近いです。
それでも警戒すべきは「期待を裏切る使い方」
AIの使用に何の問題もないという意味ではありません。私たちの社会には、AIを使わないことが期待されている領域が確かにあります。
履歴書が良い例です。自分の経歴や経験をAIの助けを借りて整理するのは、十分にまっとうな活用だと思います。しかし、求人票だけを入力して「ここに受かる履歴書を書いて」と頼むのは違います。読む側はその人の実際の経験や考えを見たいのに、その期待を欺く使い方だからです。
偽のレビュー、存在しない専門家を掲げた記事、人が書いたように偽装した大量投稿も同じ文脈です。これらは品質が低いからではなく、信頼を壊すから問題になります。つまり「AIスロップ」という一つの言葉の中には、単に拙いコンテンツと、見る人を欺くコンテンツが混ざっていて、本当に警戒すべきなのは後者だと思います。スロップと呼ばれるものの中にも、作った人は良いコンテンツを作ろうという気持ちだったケースが少なくないはずですから。
予想される反論
意図が善くても結果が有害なら問題だ。AIが作ったデータでAIを繰り返し学習させると、モデルが次第に多様性を失うという研究もある。
実際、2024年に学術誌 Nature に掲載された研究は、こうした「モデル崩壊」現象を報告しています。4 人の目に見える品質とは別に、情報エコシステム全体が汚染されうるという点は、過去のコンテンツの洪水とは明らかに異なる点です。この部分は、楽観だけでは済ませられない課題として残しておきたいと思います。
作る人には難しくなり、見る人には悪いことばかりではない時代
AIでコンテンツを作るのが当たり前になれば、作ること自体はもはや競争力になりにくくなります。誰でも作れるのですから、その中で人々の目に留まる難易度は、作る側から見ればどんどん上がっていくでしょう。すでにそうなりつつあると感じていますし、同じ仕事をしている私にとっても簡単ではない部分です。
しかし、この変化が見る人を害する方向にだけ進んでいるのかと問われれば、私は慎重ながらも楽観する側です。試みは増え、フィルターは進化し、慣れるほどに「AIかどうか」より「自分にとって役に立つかどうか」でコンテンツを判断するようになると見ているからです。
予想される反論
その楽観は早い。フィルターが追いつくまで、見る人が払う疲労と欺きのコストは実際に存在する。
同意します。だからこそ私は、AIスロップを以前にはなかった巨大な社会問題というより、コンテンツが多様化する過程で現れる現象として見つつも、そのコストを軽く見過ごさないようにしたいと思っています。作る人として私が握っていたい基準は一つです。
このコンテンツを誰が読み、その人が実際に何を持ち帰るのか。
この問いに答えられるなら、AIを使っていようがいまいが、それはスロップではないと思います。
각주
-
AP, 「Merriam-Webster's 2025 word of the year is 'slop'」 — ABC7 ↩
-
Bellaiche et al. (2023), 「Humans versus AI: whether and why we prefer human-created compared to AI-created artwork」, Cognitive Research: Principles and Implications — PsyPost要約 ↩
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Shumailov, I. et al. (2024), 「AI models collapse when trained on recursively generated data」, Nature ↩