チームプレーではなく「俺」を語るスポーツ漫画
日本の少年スポーツ漫画は、だいたい同じ話をします。仲間を信じろ、チームが一つになった時に奇跡が起きる。友情・努力・勝利の方程式ですね。
『ブルーロック』はこの方程式を真っ向からひっくり返します。この作品において、サッカーはチームプレーではありません。最も重要なのは個人の思考、個人の欲望、そしてエゴです。「世界一のエゴイストだけが世界一のストライカーになれる」。作品全体がこの命題一つを軸に回っていきます。
初めてこの設定に触れると、居心地の悪さを覚えるかもしれません。過剰な自我をこれほど堂々と肯定していいのか、と思うからです。興味深いのは、こうした疑いが作品の外の読者だけにあるわけではないという点です。**作品の中でも、この命題は絶えず疑われています。**作品序盤、全員のメンタルが崩れている時、千切はこう言います。今例に挙げた世界一のストライカーがいる国々も、ワールドカップでは優勝できていない、と。エゴを叫ぶ作品が、そのエゴの限界を自らキャラクターの口に語らせたわけです。
疑いと挫折と成長の連鎖
それでも物語は崩れません。疑われていたエゴのおかげで誰かが実際に成長し、その成長がまた新たな疑問を生みます。
エゴを育てる → 疑われる → 挫折する → エゴをさらに精緻に磨いて成長する → また疑われる
私は、この連鎖こそがブルーロックの吸引力を生み出すエンジンだと思っています。作品は正解を与えず、問いを投げかけ続けながら読者を引っ張っていきます。だから自然と気になってきます。この問いは、最後にどんな答えへたどり着くのでしょうか?
私の仮説:エゴを築き上げた人間が、それを手放す瞬間
私の予想はこうです。
結末で最も大きな成果を出すのは、世界最高レベルまで築き上げたエゴを、自らの意思で一時的に手放す人間だろう。
エゴを否定する結末という意味ではありません。エゴを最後まで育てる過程は絶対に必要です。そうしてこそ「世界一になる」という渇望を最後まで握りしめていられるのですから。ただ、そうして築き上げた自我を決定的な瞬間に世界と整合させた時、逆説的に最も高い場所へ届くということです。
根拠1. ブルーロックというプロジェクト自体が逆説である
ブルーロックの目標は、世界一のストライカーを作ることです。ではなぜそのストライカーが必要なのでしょうか?日本のワールドカップ優勝のためです。ワールドカップ優勝は個人ではなく、チームが手にする成果です。
結局この作品の前提には、最初から「極限の個人を作って共同の目標を達成する」という緊張が隠れています。千切の言葉のように作品の中でエゴの命題が疑われ続けてきたのも、この緊張のせいだと見ています。そして結末は、この緊張をきれいに整理する場になる可能性が高いでしょう。
根拠2. フロー、自我が消える没入
ブルーロックで選手たちが最高のパフォーマンスを発揮する時は、「フロー」状態として描かれます。心理学で言うフロー(没入)の代表的な特徴の一つが自意識の消失です。自分を意識していない時に、最も自分らしいプレーが出るということですね。
エゴを極限まで押し進めた先に、「俺」という意識が消える地点があるということ。作者はすでにこの逆説の伏線を敷いていると私は思います。
根拠3. 潔の出発点だったあの「パス」
主人公の潔世一がブルーロックに来ることになったきっかけは、高校時代の決定的な瞬間に自分でシュートせずパスを選び、敗北した経験でした。それなら、最後に潔が再びパスを選んだらどうでしょうか?
二つのパスは見た目が同じなだけで、発想はまったく異なります。
- 高校時代のパス:「サッカーはチームプレーだから」。責任を避け、エゴがなかったから出したパス
- 結末のパス:「このゲームは俺が設計した」。盤面全体のアドバンテージの総量を増やすために、世界一のエゴを持つ人間が自ら選んだパス
同じ行動がまったく異なる理由で繰り返される、首尾一貫した構成ですね。潔の武器が最初から他の選手のエゴを読み、喰らい、パズルのように組み合わせる「連結型のエゴ」だったという点も、この可能性を裏付けています。
もちろん、正反対の結末も十分あり得ます。最後の瞬間に迷いなくそのまま打ち抜いてしまうことですね。シュート直後に結果をすぐ見せず、一拍遅れて明かす演出も想像できます。しかし、どんな形であれ、その場面が語ろうとする核心は同じだろうと見ています。自分と世界を整合させた人間が、最も大きな成果を出すということ。
根拠4. 潔は天才ではなく秀才である
ブルーロックは一話を丸ごと割いて、天才と秀才の関係を説明します。絵心甚八の話と潔の思考を追いながら解き明かしていくくだりです。天才は世の中になかった概念を生み出す人間であり、秀才はその概念が本当にすごいものだと世界に証明する人間です。そしてこの二人は共に進みます。このくだりで例として登場する人物がスティーブ・ジョブズです。
主人公の潔は典型的な秀才キャラクターです。一人で新しい概念を生み出すタイプではなく、フィールド上の才能を読んで連結し、結果で証明するタイプですね。
ここで重要な点があります。秀才の役割は、定義上**世界に向いています。**証明とは結局、世界と接する営みだからです。それなら、秀才である潔が到達する最終形態も、自我を世界と整合させる姿である可能性が高いでしょう。私はこのくだりを読んで、自分の予想が当たるだろうという確信がさらに強まりました。
現実でもそうだった:スティーブ・ジョブズ、そして私の話
先ほど触れたスティーブ・ジョブズは、疑いようのないエゴイストでした。初期のジョブズは自分が作りたいものを作っていました。しかし彼が最も大きな成果を出した時期は、その巨大な自我を世界のニーズに整合させて以降だったと私は見ています。自我を捨てたのではなく、自我の向かう方向を世界と一致させたのです。
私にも似た経験があります。私はB2Bマーケターとして働きながら、顧客のニーズを作り、それをリードへ、さらに商談へとつなげる仕事をしてきました。ところがかなり長い間、チームを完全には信じられませんでした。リードを作るだけでは足りない、営業まで自分で直接やって成果を出さなければならない、すべてを自分がやらなければならないと思っていたのです。
振り返ってみると、全体として仕事が最もうまく回っていた時期は別にありました。私がニーズを作り、最後の段階はある程度同僚に譲った時でした。その時にチームのシナジーが最も大きく生まれました。
正直なところ、その時期に私が最も評価されたかどうかは別問題です。ボールを渡した人よりゴールを決めた人のほうが注目されるのは、サッカーも会社も同じですから。それでもパイ全体を大きくするという観点では、そのやり方が正しかったと確信しています。そしてその譲歩は、私がニーズを設計していたからこそ可能だった選択でした。何をすべきか分からなくて渡したボールではなかったのです。
ブルーロックを読みながら、その時期のことが何度も頭をよぎりました。
予想される反論:「それはエゴの放棄ではないのか?」
こんな反論が出るかもしれません。ブルーロックのアイデンティティはエゴなのに、最後にそれを手放したら、作品が自らメッセージを否定することになるのではないか、と。
私は逆に考えています。**エゴのない人間には、手放すものもありません。**最後まで育てた人間だけが「選んで」手放すことができます。だからその手放しは敗北ではなく、エゴが行使できる最も高い形の決断です。エゴの否定ではなく、エゴの最終進化形というわけですね。
おわりに:この漫画が自己啓発書のように読める理由
ブルーロックは問い続けます。お前は何を望むのか、そのためにどれだけ利己的になれるのか、と。その問いのおかげで、私は自分の仕事にもっと欲を出し、実際に成果も出しました。
しかし、この作品が最後に残す問いはもう一つあるだろうと思っています。
「そうして育てたお前のエゴを、お前はどこに整合させるのか?」
世界一のエゴイストが、そのエゴを世界と合わせる瞬間。私はブルーロックの最後のページが、まさにその場面であることを期待しています。